私のルーツ。料理家になる前は、歌手でした。

私のルーツ。料理家になる前は、歌手でした。
私の父は、詩人でフランス文学者の平野威馬雄。晩年はUFOやおばけの研究をするなど、とにかく明るくて楽しい父でした。そんな父を慕って、わが家は千客万来。私は小さい頃から色んな人たちの話が聞けるのがうれしくって、学校へ行くより家にいた方がよっぽど勉強にもなって、楽しかったぐらいです。
とりわけ、フランス人の訪問者は多く、日本では売られていないレコードをたくさん持ってきてくれました。それが「シャンソン」との出合いでした。私は、そのフランス語を真似て歌うのが大好きで、意味も分からず発するフランス語を褒められるうちに、どんどん歌にのめりこんでいきました。そのうち、父から「おい、レミ。こっちに来て歌いなさい」と、知らないお客さんの前に呼ばれ、フランス語でシャンソンを歌うようになったのです。
歌手としてのデビュー
父は、好きなことはトコトンやれ。という主義で、勉強のことは二の次。私が高校を中退した時も、理由は聞かず、好きなシャンソンの道に進むように導いてくれました。お陰で、プロの先生について、本格的にシャンソンを習うようになりました。レッスン場は遠い所にあったのだけれど、先生のピアノの伴奏で歌えるのが嬉しくて楽しくて、毎週欠かさず通っていました。そのうち、先生から「プロになってお金を稼ぐようになってはダメよ」って、何度も言われるようになり、「どうしてですか?」と聞いたら、「お金は汚らわしいものだから」と言われました。でも、先生は私から月謝をいっぱい取っていたのよね。で、ちょっとだけ先生に逆らう気持ちもあって、日航ホテルのミュージック・サロンのオーディションを受けたら受かっちゃった。それから、歌手としてステージに立つことになって、汚らわしいお金を稼ぐようになったのです(笑)。
歌手としてのデビュー
そのうち、なんとレコード会社から声がかかり、念願のシャンソン歌手としてデビューすることに。でも、「シャンソンはまだ君には早いから」と、まずは流行歌手路線へ。デビュー曲は、「誘惑のバイヨン」。♪あなたにあなたに誘われて~愛する事を知ったのよ~♪これは、ストリップ劇場で流された事もあり、中ヒットとなったようです。月日は流れ、そろそろシャンソンを歌わせ てもらえるかと期待していると、4曲目にはなんと「かもねぎ音頭」。シャンソンとは益々縁遠くなり、銀座で籠にねぎを背負ってプロモーション活動をやらされそうになったので、その日以来、レコード歌手生活とは縁を切る事にしました。
父が夫に託した言葉
そんな私も結婚することになり、和田さん(夫・和田誠)が父に挨拶に行くと、父が和田さんに託した言葉があったそうです。「レミから歌だけは取らないでおくれ」。このことは、ずっと後になって和田さんから聞かされました。
レコード歌手は辞めたけど、歌う事が大好きだった私は、結婚して、子どもが生まれてしばらくの間は「銀巴里(1990年まで銀座にあった日本初のシャンソン喫茶)」でシャンソンを歌っていました。そんな姿を見染められたのか、88年には念願のシャンソンのCD「聞かせてよ~シャンソン・ド・レミ」を発売することができました。そのうち、料理愛好家としての活動の場が広がり、料理の仕事の方が忙しくなっていきました。それから約20年が経ち、子どもも巣立った頃、「あ~これで何もかもOK。後は和田さんと楽しく暮らせばいいね」ってポロッとつぶやいたら、和田さんが「レミにはまだやり残したことがあるだろ」と、2枚目のシャンソンのCDを出す提案をしてくれたんです。その言葉を聞いたとたんに、歌いたい!と心が飛ぶのが分かりました
父が夫に託した言葉
全曲、詩は和田さんに書いてもらい、こうして、夫婦二人三脚で作ったCD「私の旅」(ディスククラシカ)が生まれました。後になって、これって和田さんが父から託された言葉を実行してくれたんだな~って分かりました。父にも和田さんにも感謝でいっぱいです。
歌に関してはひとつ悩みがあります。歌を歌うと必ず人から言われること。「レミさんって、喋ってる声と歌ってる声がまるで別人だね」って。まったく失礼しちゃいます。